特許 令和7年(行ケ)第10103号「眼内インプラント用の細胞増殖抑制性コポリマ」(知的財産高等裁判所 令和8年8月10日)
【事件概要】
本願発明は、眼内インプラント用の細胞増殖抑制性コポリマに関するもので、審決取消訴訟において、審決のサポート要件違反の判断の妥当性が争点になったところ、裁判所が、本願発明はサポート要件を充足せず、原告の主張には理由がないとして原告の請求を棄却した事例。
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【主な争点】
(1)技術常識による推論可能性の看過及び総合評価の誤り(2)生体適合性に関する判断の混同・誤りという審決の違法があるか否か(特許法36条6項1号の審決の判断に誤りがあるか)。
【判示内容】
本願発明の課題は、本件明細書の記載・・・によれば、本件審決が認定したとおり・・・、眼内インプラント手術後に、その表面に存在する生物が元来有している細胞の増殖を抑制するための、眼内インプラント用の細胞増殖抑制性ポリマを提供することにある・・・
本願発明の眼内インプラント用の細胞増殖抑制性ポリマは、・・・第4級アンモニウム系塩モノマであるMDPB、DMAE-CB、MAE-DB、MAE-HB及びIDMA-1・・・から選択される少なくとも1種の細胞増殖抑制性モノマと、アクリルモノマ、シリコーンモノマ、ビニルモノマ及びコラーゲンモノマから選択される少なくとも1種の他のモノマとが共重合されることにより得られる・・・サポート要件を満たすというためには、本願の発明の詳細な説明の記載又は出願時の技術常識に照らし、当業者が、上記ポリマを眼内インプラントに用いたときに、その表面に存在する生物が元来有している細胞の増殖を抑制することを認識できることが必要である。
本願モノマのうちMDPBは、歯科用接着剤及び歯科用樹脂と共重合する場合、虫歯のリスクを減らすために使用されており、哺乳動物細胞の増殖を抑制することも分かっているとの記載がある・・・しかし、MDPBのいかなる特性に基づくいかなる作用が「虫歯のリスク」を減らしたり「哺乳動物細胞の増殖を抑制」したりするのかについては何ら記載がない。
また、第4級アンモニウム系モノマの別の例はDMAE-CBであるとの記載があるが・・・DMAE-CBのいかなる特性に基づくいかなる作用が細胞増殖抑制性と関係するのかについても何ら記載がない。・・・MAE-DB、MAE-HB及びIDMA-1については、発明の詳細な説明に何ら記載がない。
加えて、本願モノマから選択された一つのモノマと他のモノマが共重合されることにより得られるポリマを眼内インプラントに用いたときに、その表面に存在する生物が元来有している細胞の増殖を抑制することについては何ら記載がないし、それを裏付ける実験例等も示されておらず、本件の全証拠を検討してもそのような技術常識があると認めるに足りない。
そうすると、本願の発明の詳細な説明の記載又は出願時の技術常識に照らし、当業者が認識できるのは、第4級アンモニウム系塩モノマという広範な化合物群に属する特定の化合物であるMDPBに何らかの哺乳動物の細胞の増殖を抑制する作用があるということにとどまるのであって、本願モノマという特定の5種類の第4級アンモニウム系塩モノマから選択された一つの細胞増殖抑制性モノマと上記4種の他のモノマの一つとが共重合されることにより得られるポリマを眼内インプラントに用いたときに、その表面に存在する生物が元来有している細胞の増殖を抑制することを認識できると認めることはできない。
仮に原告の主張する技術常識が認められるとしても、それにより認識し得るのは、第4級アンモニウム基を有する化合物が哺乳動物細胞の増殖を抑制する作用機序を発現するということだけであって、本願モノマを含む本願発明のポリマが眼内インプラント手術後にその表面に存在する生物が元来有している細胞の増殖を実際にどのように抑制するのかを認識し得ると認めることはできない。すなわち、第4級アンモニウム系化合物の細胞に対する作用は、カチオン性中心の構造を有するというだけで決定されるものでなく、疎水性の構造やエステル構造などの影響も受けることが知られており(乙1)、また、細胞の種類によってその細胞膜の組成等は異なることから、第4級アンモニウム系化合物に対する感受性は様々であると考えられる。さらに、特定の第4級アンモニウム系塩モノマが他のモノマと共重合された場合には、遊離状態のモノマとは異なりポリマに固定化され、ポリマ表面に存在するもののみが細胞に対して作用を及ぼし得ることなどから、細胞に対する作用がどの程度となるかは実験的に確認されることがなければ予測することはできないと解される。
【コメント】
本判決は、サポート要件に関する大合議判決の判断規範をおいた上で、
細胞増殖抑制性モノマと、他のモノマとの2つのリストからそれぞれ選択され、使用対象用途と性質を含んだ発明特定事項をもつ共重合ポリマの発明に対して、第4級アンモニウム系化合物の細胞に対する作用は、様々な影響因子が存在すること、対象細胞の種類による第4級アンモニア系化合物に対する感受性は様々であること、特定の第4級アンモニウム系塩モノマが他のモノマと共重合された場合には、遊離状態のモノマとは異なりポリマに固定化され、ポリマ表面に存在するもののみが細胞に対して作用を及ぼし得ることを指摘して、単に化学分野の発明全般にいえる非予測性ではなく、細胞に対する作用がどの程度となるかは実験的に確認しなければ予測できないという具体的理由を明示的に判示している点が注目される。
本願明細書に概念的な実施形態の記載と模式的なポリマ構造の図面があるだけで、実施例が1つも存在していなかったことや課題解決を示唆する技術常識が存在していないことからみて、本判決のサポート要件の判断は妥当なものといえる。
もっとも、原告が挙げた取消事由である、作用機序が共通し技術常識として確立している場合、対象細胞が異なっていても個別の実験データは不要である旨のサポート要件の判断枠組みの誤りの主張や、審決がサポート要件と生体適合性という別個の判断枠組みを混同し、特許法が技術思想を保護するものであることを看過し、本願発明の技術的特徴(固定化構造、作用態様)を誤解したものである旨の生体適合性に関する判断の混同・誤りに関しては、重要な論点を含んでいるといえる。
つまり、本願明細書に眼内インプラントの細胞増殖抑制について一定の作用機序が説明されていた場合には、実施例が必須であるとはいえないし、本願発明における「細胞増殖抑制」は、壊死レベルの細胞死ではなく、増殖速度の低下・付着抑制を含む広い概念であり、本願発明の第4級アンモニウム系塩モノマは共重合によりポリマ中に固定化され、溶出しない点で塩化ベンザルコニウム等の遊離型第4級アンモニウム系化合物とは作用態様が根本的に異なるという主張自体には、一定の合理性があるといえる。
従来技術として、「細胞増殖抑制性化学物質でインプラントの表面を被覆するか、または細胞増殖抑制性化学物質を同表面に共有結合させる」技術、及び「眼内インプラントのポリマに細胞増殖抑制性金属イオンを注入する」技術(ただし金属イオンのポリマ外への拡散は毒性の懸念がある。)を挙げた上で、本願発明は、「コポリマの表面だけでなく、コポリマの全体が、細胞増殖抑制特性を有するため、このタイプのコポリマから作製された眼内インプラントは、たとえインプラントの表面が、時間と共に浸食されても、それらの細胞増殖抑制特性を失わない」ことを解決手段及び効果とする技術的思想の発明である。本判決は、上記技術的思想は理解できても、最低限の実験結果に基づく裏付けがないとサポート要件違反の拒絶理由を克服することが困難であることを示唆している。
本願発明
「眼内インプラント用の細胞増殖抑制性ポリマであって、少なくとも1種の細胞増殖抑制性モノマと、
アクリルモノマ、シリコーンモノマ、ビニルモノマ、および/またはコラーゲンモノマから選択される少なくとも1種の他のモノマと、が共重合されることにより得られ、
前記少なくとも1種の細胞増殖抑制性モノマは、第4級アンモニウム系塩モノマであり、
前記第4級アンモニウム系塩モノマは、メタクリロイルオキシドデシルピリジニウムブロミド(MDPB)、・・・
から選択されて、
前記眼内インプラントの表面に存在する、生物が元来有している細胞の増殖が抑制される、
ことを特徴とする細胞増殖抑制性ポリマ。」